治安維持法

 

戦後の日本社会は、自らの手で治安維持法体制を解体したわけでなく、また、自らの手で人権侵害責任者の裁きをおこなったわけでもない。その意味では、戦後の日本社会は治安維持法体制なるものを、そんなにつよく断罪するつもりはなく、むしろ、歴史の必然として受容する気配さえあるのではないかと思われるふしがある。
戦後日本が、治安維持法体制に対し存外に寛大であったという印象を与える出来事の一つは、戦前一貫して思想係検事のリーダーたる役割を果たしてきた池田克の、最高裁判所裁判官への就任であった。池田は、平田勲らとともに大正末、治安維持法が制定された当初からの、したがって最初の思想専門家として、東京地検大審院の検事局または本省で、思想検察の成立・発展のため、辣腕を振った。じつに、池田を抜きにして戦前の治安維持法の運用を語ることができない、といっていいくらいである。
治安維持法小史 (岩波現代文庫)

大正てどんな時代だったかしらん、知らないので(すみませんです)、『大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉 (岩波新書)』読みます。

大正デモクラシーとは、その出発点においては、「帝国」に成り上がった明治日本が、従来の構造では対応できなくなったことに由来して起こる運動の総体となっている。さまざまな階層により、旧来の社会構造と秩序に抵抗して展開された運動である。
同時に、デモクラシーの主体をめぐっての込み入った事態が示されてもいる。すなわち、旦那衆の集会参加や運動も、「国民」(あるいは「市民」「民衆」)を標榜し、批判的主体としての「国民」を提示しようとしている。
大正デモクラシー―シリーズ日本近現代史〈4〉 (岩波新書)

おもしろそうです。夏休みはまだ長い(笑)
 
 
めも。1941年の改正について…

「国体変革」も「国体拒否」も五十歩百歩ではないか、という反論があるかもしれない。
たしかに歯止めのきかなくなった国家権力の作用面からみれば、どんな文言が法律上もちいられようと、それとおかまいなく権力行使はくりひろげられる、といえないことはないからである。それにもかかわらず、私は「国体否定」という法文の異常さ・異例さを強調しておきたい。まったく観念の世界にとどまる人間の精神活動そのものに標的を合わせているのである。ここで「国体」という魔物のことは、とやかくいうまい。それにしても、「否定」すなわち「承認しないこと」が、罪だというのだから、おそろしいではないか。私の言いたいことは、このような文言を臆面もなく、天下の法律のなかに取り入れることによって、権力自身がますます歯止めを「否定」する姿勢を明らかにしたということである。
治安維持法小史 (岩波現代文庫)