街に雨が降るように

 

チッソ後藤会長・会見要旨(熊本日日新聞 2007.11.20)

「解決はしたい。だが不用意な解決なら、あの地域はどうなるだろうか。また十年たって年とった人が、手がしびれるからといってお金が欲しくなることもありえる」
―その発言の意図は。
「(救済策による)一定の判断で、そうなっては困る。いつまでも水銀の影響が残っているはずはないだろう。本当の見分けが付かないのがこの問題の苦しいところ。九六年に片付いた事が急に(申請者が)増えたというのは、あいまいな救済がなされたということ」

なんで、こんなことが言えますか??
 
 
   
 
 
ふと、わたしのこころに雨がふる、を思い出す。今日は乾燥注意報、ひとりになったら本を読む。ふん。

キリスト教とは「個人的出合い」を重視する宗教だと言うことができる。イエスの時代にイエスに出合ったものは、神に出合ったのであり、イエスに愛を示したものは、神を愛したのである。聖書はこのことを通じて、「人との出合い」は「神との出合い」である可能性を示唆している、と解釈するのがキリスト教なのである。
ところで、「人と出合う」とき、人は「顔を合わせる」。したがって「ペルソナ」という顔をとらえることばをもって、神の具体化と見るキリスト教とは、人間に、個人的出合いは神との出合いでありうる、というメッセージを伝えている。このメッセージが哲学的施策によって受け止められて、ヨーロッパで「個の思想化」が可能になったのである。

「ただ一人」生きる思想 (ちくま新書)

よくわからなかったけど。
私が尊厳という言葉が飲み込めないでいるのは、思想を勉強したり信仰をもったりしていないからかな…