憲法24条

 

第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 
憲法と国家―同時代を問う (岩波新書)』より。

この条文は、何より、旧日本に特有の「家」制度を否定し、西洋近代型の家族を、憲法上の公序として強制する、という意味を持った。その後、民法の親族・相続篇の大改正(1947年)のためには、法案作成・審議の過程で、大きな抵抗を押し切る必要があったし、初期の復古型改憲論は、天皇元首化・再軍備とならべて、憲法二四条を三大標的とした。そうしたことからも、この条文が、どれだけ現状改革的な意味を担っていたかを、知ることができる。
だが、それだけではない。ことがらは、第二四条が「個人の尊厳」を家族法の理念として掲げていることの意味を、どこまで深くうけとめるかにかかわっている。
日本国憲法は、第十三条で、「すべて国民は、個人として尊重される」としている。これは、近代憲法の究極の理念としての「個人」に、いわば総論的に言及したものといえるが、個別の条文では、第二四条でだけ、あらためて「個人の尊厳」をうたっている。そこには、近代憲法のいわば総論的「個人」主義にとって、家族が、その原理が貫徹しない飛び地だったことへの、批判的見地を読みとることが、可能ではないか。
ひき合いに出されることの多い、ワイマール憲法の家族条項は、婚姻を、「家族生活および民族の維持・増殖の基礎として」「憲法の特別の保護を受ける」(119条1項)もの、としている。少なくともそれとのちがいは、日本国憲法にとって明白であろう。
家族にかかわる領域で「個人」を本気でつらぬこうとする見地からすれば、憲法二四条は、ワイマール憲法の家族保護条項とは反対に、家族解体の論理をも──もちろん、必然的にではないが──含意したものとして、読むことができるだろう。

 
また「飛び地」だ(笑)
子どもを育てることへの支援は手厚くていいと思うけど、そのあり方への介入がびみょーにくっついてくるなら気持ちがわるい。統制しようとしても、できるものでもないとは思うし「民族の維持・増殖の基礎として特別の保護を受けるもの」としようとしているとまで言わないけれども。
ただ、ひたすら「保護の論理の優先する空間」とされてしまえば、どうなっていくのかな…
 
 
  
 
「家族関係が複雑になる」には説得力ない気がする。
解体してしまえばいいとも思えない。だけど、ひとの行為を制限するのはむずかしいな。