限界線の引き方

 
憲法と国家―同時代を問う (岩波新書)
読んだけど。
 
「権利を保障するとは、その権利の限界を定めることだ」への答え方は大きくふたつとして

二段階画定アプローチは、さまざまの主張に、引き算をする以前の段階で、権利性を主張する可能性をともかくも論理上みとめるから、新しい権利主張が、少なくとも入口までは参入しやすい。その反面、「なにをしてもよい自由」はそれだけ簡単に制約されてしまうから、制約の根拠として持ち出される観念──たとえば「公共の福祉」──の方も、内容をかならずしもはっきりさせなくとも、常識的に通用しやすくなる。
「公共の福祉」は、近代以前には、啓蒙専制君主が、「人民の福祉が最高の法」という標語のもとで、法による拘束をまぬかれようとするときのキーワードだった。近代社会で、「他人を害しないすべてをすることができること」という「自由」の定義(1789年宣言4条)のもとでは、この観念はいったん姿を消す。二十世紀の段階になってふたたび、「公共の福祉」は、経済的自由を制限して国家が社会経済活動に介入する根拠として、憲法に登場する(1919年のワイマール憲法)。
そのような歴史的背景をぬきとられた「公共の福祉」が、こんどは、きわどいハードケースで、権利制約のマジックワードとして、権利主張をなぎ倒すことになりやすい。そうであるだけに、ここでは、権利主張への制約を制約する、というかたちでそれに対抗することが、議論の主要な型となる。「いかに」裁判所の判定を制約する基準を立てるか、に法律家の関心が集中することになる。

一段階画定アプローチの方は、一応の権利という想定を認めたうえでその制約を考える、という構成を意識的に拒否する。したがって、それは、権利の新規参入に対しては高い敷居を設けることになるが、その反面として、あれやこれやのバーゲニングをしりぞけて、切り札としての「人」権を擁護するのに適している。
一段階確定アプローチは、なぜ一定の行為内容が権利としての保護を要求することができるのかを、積極的に説明しなければならない。こうして、「なぜ」を問う人権論が、よび出されてくる。

 
むずいのでメモだけしておきます。