憲法と天皇制

 
読みました。
「在位62年」に違和感とか、考えたことなかったです。そんなもんなんだー、くらいの感覚しかなくて、べつに思い入れもない。ワイドショーは見ないけど、ずいぶん昔にテレビの晩餐会とかみたことある。それくらいぼんやり。
 
 

天皇の国事行為は、憲法の建前の上では、政治の実際には関わりのない「形式的・儀礼的」行為と位置づけられているものの、まさにそれは国家のさまざまな行為に形式的にではあれ「恰好をつける」という行為であり、その意味では権威づけをする行為とも言えるので、それら儀礼的行為を行う主体である天皇も、当然に一定の権威を持つものとして人びとに意識されることにならざるをえない。このことは、天皇はいまや具体的な政治的権威を一切持っていないが、国事行為を行う権威ある存在として、国民意識を一つに統合するという、きわめて高度の政治的機能を果たしているし、今後とも果たすであろうということを意味している。したがって、政治的権限を実際に持たなくても、国事行為を行う主体としての天皇が存在するということ自体が、日本において大きな政治的意味を持っているのである。
憲法と天皇制 (岩波新書)

広汎にわたる天皇の公的な行為は、国事行為と同様に、いやある場合にはそれ以上に、国民に天皇を意識させる場として機能しており、結果として天皇の権威や統合機能を強めている。かつて1950年代、社会心理的に国民を統合することができるだけの十分な「場」を日本国憲法は象徴天皇に与えているかとの疑問をある憲法学者(黒田覚)が提示したことがあった。憲法では天皇の君主的性格が不明確で、象徴として機能する「場」をほとんど用意していないので、天皇憲法の枠のうちで国の象徴・国民統合の象徴として機能する可能性はほとんどないと言うのである。
憲法と天皇制 (岩波新書)

 

国家神道になっても、これは政治権力より上位にあったわけではない。逆に、政治権力が必要としてつくったものです。政教分離すなわち国家と宗教の関係を考える場合に、私たちは西洋育ちの政教分離観念を使いますけれども、その前提がちがうということをしばしば忘れがちになる。キリスト教国では宗教の方がもともと強くて、世俗の国家がそれにどう対処するかという話なのですけれども、日本の場合はもともと国家の方が強い。近代国家以前から、幕府権力の場合もそうでしたし、19世紀以降の近代国家は天皇国家でまさにそうだったのです。天皇制国家の方が伊勢神宮より強かった、という当たり前のことをはっきり認識せずに政教分離を議論すると、西洋の政教分離を運用する基準のいろいろなドクトリンを日本に持ってきて当てはめようとしても変なことになるのです。(中略)
アメリカを含めた西洋の場合と日本の場合と決定的に違うのは、日本は初めから宗教を世俗目的に利用しようとしたのであって、本当に伊勢神宮への信仰が全国民のあいだに根を張っていて、それが政治を支配してはいけないのだ、という意味の政教分離ではないのです。
個人と国家 ―今なぜ立憲主義か (集英社新書)

 
 
憲法は、神さまを人間にしたものなんだな。いろんな矛盾を含んでいるとしても。